・友達や知り合いはいるけれど、本当の親友と呼べるひとはいない。
・心から共感したり、わかりあったりできるひとがいない。
・彼氏や旦那さんはいるけど、本当の自分は出せていない。
・そもそも自分の気持ちがわからない、、、
…日本の現代社会の中で、
今、このような方がとても増えているように感じます。
戦後、子供の数も減り、核家族化してきています。
そして、経済成長を重視するがゆえ、夫婦の、そして、家族の会話が減っています。
商店街が減り、スーパーマーケットも減り、インターネットで誰にも会わずに買い物が出来る時代。
面倒臭いことがなくなり、どんどん人間同士の関わりが減ってきています。
この「ひとの孤立化」という現象は、今後、ますます増えてゆくと考えられます。
ひとはひとと関わらないと、たったひとりでは生きて行けない生き物であり、
元々、「ひとはひとに近づきたい」という衝動が備わっています。
幼少期の子供は親を呼び、親に抱きついて、あたたかさやぬくもりを感じ、
家族という安心安全の中で、共感すること、同調すること、同じ目線で物事をみること...
など、人間関係に必要なものを学んで行きます。
この、「家族」という、ひとりひとりの人間のエネルギーが混ざり合う共同体の中で、
ひととの関わりを体感するのです。
この関わりの中で、ひととの関わりが「快」なのか「不快」なのか?
これを幼少期にインプットしてしまいます。
実は、この感覚は一生からだに染み付いてしまうのです。
「ひとに近づく」ということは、自分と相手のエネルギーが混ざり合うことです。
もしも「このひととは一緒にいても楽しい」「同じ感覚を共有できる」「同じものを見ることができる」
「考え方の方向性が似ている」など、だれかと一緒にいることで快い感覚を感じられるのなら、
ひととエネルギーが混ざることが心地よく、ひとと親密になれるわけです。
しかし、逆に、
「ひとと一緒にいても楽しくない」「共感しあうということが苦痛」
「どう思われるかが不安」などという不快な感覚を感じるのであれば、
「本当はひとが怖い」
「本当はひとを信用できない」
「本当はひとに近づけない」
…という自分では気がつかない無意識の領域での感覚を持ってしまっているので、
からだの感覚がひとを拒否し、ひとと距離を取ることしかできないのです。
このような感覚があると、ひとと共になにかを作り上げたり、
同じ方向を向いて進むことが苦痛になります。
ひとと一緒にいると、不快の方を大きく感じてしまうので、
結局「ひとりでいいや」「ひとりの方が楽」という決断をしてしまうのです。
人間はいろんな感情がある生き物です。
どんなことに感情が動くのかは個人個人違います。
ひとと一緒にいたいのなら、それをわかりあう努力をし、切磋琢磨して、
共に歩む決意をしないと無理なこともあるでしょう。
わたしは「このひとと一緒にいよう」「仲良くしたい」「距離を近づけよう」と決める時、
自分にとっても相手にとっても責任が伴うのではないかな、と思うのです。
感情はエネルギーですから、接触したらそこに化学反応が起きるわけです。
例えば、「怒り」が溜まっていたら、
お互いの「怒り」のエネルギーに反応し合い、口論になってしまうことってあります。
そんな時、「今、ふたりの間になにが起きているのか?」と冷静に見てみる目を持つことが必要でしょう。
なにか問題が起きた時、「相手が悪い!」「関係を切ってしまおう」「ひとりでいる方が楽」と結論づけてしまうのは簡単ですが、
でも、そういうことを繰り返していたら、お互いの関係は成長はしませんし、自分自身の成長も望めません。
「もっとひとと良い関係を築いてゆくにはどうしたらいいか?」をいつも考えてゆくことが大切なのではないかと思います。
良いエネルギーの融合は、『1+1=2』ではなく、「1+1=無限大』。
生み出されるものの可能性が無限大に広がってゆきます。
お互いの成長を喜びながら、人生の同志として、共感しあい、感動しあい、助けあい、応援しあい、
共に成長しながら人生のいろいろな風景を一緒に眺め、幸せを感じながら、なにかを作り出しながら、
進んでゆくことが可能です。
そんな関係性を築いてゆくには、ひととの関わりを面倒だからと回避するのではなく、
自分自身の問題を解決してゆこうとする「責任ある大人」になることが必要だと思うのです。